心が、どんどん壊されてゆく

現代人の心が壊されています。その現象や理由を探り提示しています。

-----------------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
にほんブログ村 教育ブログへ
2017-09-04-Mon-11-05

"キレる大人"嫉妬・スマホ・睡眠の脳科学

キレる大人が増えている。そういう事件は良く耳にするし、増えてきたという実感がある。その背景には睡眠不足やIT依存の問題も少なからず影響しているようだ。
------------------
"キレる大人"嫉妬・スマホ・睡眠の脳科学
リンク

分別があっていいはずの中高年にキレる人が増えている。その原因として何が考えられるのか? 急ピッチで研究が進められている脳科学分野から、怒りのメカニズムと、それを静める方策を解明する。

あなたのアタマの中では何が起きているのか?

(中略)警察庁の調べによると、2013年の暴行検挙者数は、なんと40~49歳が最も多いのだ。04年と13年を比べた伸び率も40~49歳は高い。帰宅途中の電車内で押されたとか、肩がぶつかったとかでほかの乗客と揉め事を起こしたり、電車の遅延に対して駅員に詰め寄ったり……。そんな中高年の醜態が目立つのは、決して気のせいではない。

では、分別のあるはずのいい大人が、なぜキレてしまうのだろう。それを解くカギの一つが脳のメカニズムにあって、「怒りに密接に関わるのが、脳の中心部にある大脳辺縁系の中の扁桃体です」と精神科医の西多昌規氏は説明する。

「扁桃体は恐怖や不安、緊張などに反応します。心理的には、自分の思うようにならないときに怒りが生まれます。渋滞にはまったりすると、だんだん機嫌が悪くなる。仕事でも対人関係でも同じで、その程度が大きくなると怒りにつながります」

この扁桃体は、睡眠不足によっても過剰反応する。「寝不足だと扁桃体が活性化する一方で、扁桃体と神経で結ばれていて、その活動を抑制する前頭前野の機能が低下します。その結果、扁桃体が怒りに“ハイジャック”されるわけです」(西多氏)。

さらに、睡眠不足は「HPA軸」も刺激する(図3参照)。HPAとは脳の視床下部と下垂体、内臓の副腎に含まれる副腎皮質の3つの英語の頭文字からとったもので、人は強いストレスを受けると、脳から副腎皮質に伝達され、コルチゾルというストレスホルモンが過剰に分泌され、それが脳に影響してダメージを与える。そして、突発的な暴言や暴力といった行動が表出してしまう。

キレる背景にはストレス過多もあって、興味深いのが社会のIT化との関連だ。脳生理学者で医師の有田秀穂氏は「一日中、パソコンやスマートフォンと向き合って体を動かさず、頭はフル回転しているような状態だと、心の安定や安らぎに関与するセロトニンが低下し、強いストレス状態に陥ります」と指摘する。

そのストレスに反応するのが、脳の一番奥深いところの脳幹にあるノルアドレナリン神経で、脳全体に指令を発し、脳が興奮状態になる。そして覚醒レベルが上がり、不安やパニックが襲いかかる。その状態をよく「闘争か逃走か」という。そして、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれると、キレるのだ。

それでなくても不得手なパソコンに一日中向き合ってストレスをためたうえ、オキシトシンの分泌も減っている。その結果、先ほどのように帰宅途中の電車内でトラブルを起こす中高年が増えているようだ。

(以後略)
------------------
(引用以上)




小平健介 にほんブログ村 教育ブログへ
スポンサーサイト
2017-09-02-Sat-12-01

「今の日本は、崖に向かって突進する羊の集団」精神科医・名越康文さんに聞く、群れない生きかた

( リンク )より引用
-----------------
「群れから離れ、ひとりぼっちで過ごす。そのときだけ人は孤独から解放される」

精神科医の名越康文さんは、最新の著書『SOLO TIME 「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である』」(夜間飛行)でそう語る。なぜ「群れ」から離れることが孤独から解放されることになるのか? 逆説的とも思える「ひとり論」について名越さんに聞いた。

■孤独な人の頭の中は「他人の声」で騒がしい

――まず、名越さんが考える「孤独」とはどんなものでしょう。

孤独って頭の中が「他人の声」でいっぱいの状態のことなんですよ。「あの人にどう思われてるのかな」「LINEチェックしなきゃ」「なぜわかってもらえないんだろう」、そんな風に心に棲みついた他人の声と会話している。他人の声に頭が占拠されている状態こそが、本当の意味での「孤独」だと僕は考えます。

たとえば、「私はひとりで過ごすことが好き。喫茶店で2時間過ごしました」という人がいて、じゃあその2時間のうち「何回スマホ見てた?」っていう話ですよ。1時間以上は画面を見ていた、と答える人が今はほとんどかも知れない(笑)。

自分がどう思われているか気になって仕方ない。何が起きているのか知らないと不安になる。それはつまり、今身を置いている「群れ」の所属を失うことに強い不安と恐怖を覚えているからということにもなるんです。だから頭の中が他人の声に占拠されてしまう。

■没入しているときだけ、人は孤独でなくなる

――物理的にはひとりでも、頭の中は他人や「群れ」の価値観に支配されている。

そう。一寸先は闇かもしれないと脅える不安、それが僕の定義する「孤独」です。

私たちが暮らす社会には、家族、友人や恋人、会社、国といったたくさんの「群れ」がありますよね。個人の自由な意志で行動しているつもりでも、実は所属する群れのルールに従って行動していることがとても多い。

でもね、ちょっと考えてみてください。

マンガ好きの人なら、大好きなマンガを読み耽っている時間ってすごく楽しいですよね? そんなときに話しかけられたら「ちょっとひとりにして!」と言いたくなりません? 没入って「ひとり」じゃないとできないんですよ。そんな風に対象に没入しているときは寂しくないし、人は孤独から解放される。

僕が提案する「ソロタイム」は、そういうことなんですよ。自分の頭の中から他人の声や群れの価値観を完全に追い払って、対象に没入する時間を持つ。そういう習慣を身につけることが、生きていく上での大きな力になる。

「ひとりぼっち」になって充足できる時間があれば、私たちはもっと人に親切になれる。本当の意味でお互いを大切にして、愛し合い、慈しみ合える準備が完了したということになるんです。

~中略

■羊の群れに1匹のヤギを混ぜるとどうなるか?

――「群れ」の中は安全で平和なばかりではないんですね。

羊の群れの中に1匹のヤギを入れておく、という話を知っていますか? 羊の群れにヤギを1匹混ぜると、ヤギがリーダーの役割を果たして羊がついていくので、散り散りにならない。ヤギが「あっちへ行こう」「狼から逃げよう」と判断するから羊たちはそれについていく、ということでしょうか。どちらにせよ羊って、常に誰かのお尻を追いかけていく習性があるらしいんです。

「群れ」の中で生きる私たち現代人も、羊と同じ。誰かに着いていけば良いからそれほど勇気は必要ないけれど、群れの中はぎゅうぎゅうで息苦しい、誰かに足を踏まれて痛い、「でも人生こんなもんだ」と諦めて自分を慰めながら生きている。その一方で、他の羊を見下してお尻でボンッと押しのけたり、「あいつよりは自分のほうがマシ」と思ったりしながらストレスを発散している。

誰かを見下すことって、典型的な「群れ」の思考なんですよ。他人と自分を比べていないと、自分という存在を確認できないことの表れなんです。

――誰かを見下す人は、脅えている人? 羊とヤギの違いは?

そう、誰かを見下すのは「羊」だけです。自分で思考して判断して生きる「ヤギ」は誰のことも見下さない。集団の中で臆病になっている人を、バカにしたり攻撃したりする人っていますよね? あれは自分の中の認めたくない自分、弱い自分をそこに発見しているからなんです。

平和そうに見える羊の群れこそが、実は最もストレスが高く、怒りが大きく、誰かを見下す、危険な集団なんです。

これまでの日本社会は、自分を圧し殺して「群れ」に馴染むことが社会人になることであり、自立することだと考えられていましたよね。でもね、人間の心って本来はそんなふうにはできていないんですよ。私たちの心はもっと広大な領域を持っているし、自分の足で立つことができる。

おこがましい言い方かもしれませんが、誰しもがそのことを自覚しない限り、「羊」が量産され続ける未成熟な社会が続いていく一方だと僕は思うんです。

もしかすると今の日本社会は、崖に向かって突進している羊の集団かもしれない。

そうならないためにも、それぞれが「ひとりぼっち」の時間を大切にして、主体的に人生を選択していきましょうよ。そういう生き方のほうがに絶対に幸せになれる。それはおこがましいですが、僕が精神科医として保障します。




本田友人 にほんブログ村 教育ブログへ
2017-08-11-Fri-11-19

人間はどんな悪者にもなれる」脳科学者・中野信子が説く、“わかりやすさ”だけで判断する恐ろしさ 2/2


リンク

2極化が進んでいくネット社会

友光 結局、ネット社会になりました。個人が情報を出せるようになりました。情報の総量が増えました。それによって世の中の寛容と不寛容、いいこと悪いこと、イエス、ノーの2極化ではなくて、間が増えるかなと思ったのですが。より極端と極端が増えることになっていき、間のところの中間層は極端なポリシーがないのでそれまで以上に言う必要もないし言わなくなりました。
強いポリシーがある人のほうが発言をするに決まっているので、情報量の増加によってグラデーションや幅が広がったということは起きず、2極化が進んでいるだけなのだなということは感じています。
それこそ仏教の役割としては、「極端になりましょう」とは言いません。真ん中の道、「中道」というのですが、いろんな偏りに寄らず真ん中らへんにいましょうという基本方針があります。
社会全体にもっとグラデーションができてくれればいいと思うのです。真ん中というもう1つの対立軸。第三が欲しいという意味ではなく。
「どうしても人がたくさんいると、どっちかの強い意見に行ってしまうね」という中で、「なんとなくどっちでもない真ん中らへんに心の軸足を置けたらいいよね」というのが仏教なのです。

中野 灰色でいてもいいじゃないかという。

友光 そうなんですよね。今、どうしてもイエスかノーか。良いことか悪いことかみたいになっていて、かなり2極化したところでの議論や判断が目につきます。話し合いにしても、右と左が話をして、間の人は眺めているだけというのもある。
それは昔からそうだと思いますが、相容れない者同士が立場で言葉を投げ合っているだけというシーンがかなり広がってきてしまったなと思っています。

中野 そうですね。1つにはSNSがあることで自分と同調する人とだけ付き合うことが可能になった、という事情があると思います。
地域が限定されていたり、移動が困難だと、どんなに嫌なやつでもなんとか話を合わせる必要が出てくる。例えば、職をなかなか移動できなかった時代には、どんなにクソみたいな上司でも言うことを聞かなきゃいけなかった。
しかし、SNSはそうではない。もうコンタクトを削除しちゃえば二度とその言説に合わせる必要はなくなるわけですね。
そうすると、実は多様性が高まっているようでいながら、非常に意見が均一になりやすいという状況が形成されつつある。
アイスバケツチャレンジというのがありましたね。

友光 ああ、ありましたね。

中野 覚えていますか? あれは賛否両論があって、非常に激しい論戦が繰り広げられましたね。
そんなとき、患者さん自身が「こんな運動をしてくれてありがとう」という主旨のツイートをしたのです。それを賛成派の人は何度もリツイートしたのですが、反対派の人は一度もリツートしない、という面白い現象が起きた。
これは、主張に合わないことは無視することができる、というのがネットのクラスターにおける言論空間の特徴だということを示唆する好例だと思います。そうなると、言い方は良くないですが、自分にとって都合の悪いことは真実でも無視できるということになりかねないので、対応のしようがない。
ネットは多様性や寛容性を高めるようでいて、実は逆方向に作用しているのではないかと思えてきます。
強い意見や極端な意見を持つことは「強さ」ではない

友光 これも極端な発想ですが、そのうえコミュニティに属すること自体がリスクになっていくと、本当に極端な人ばかりが世の中に増えていく方向性にいくのかなと思いますね。

中野 また極端でわかりやすいことを言う人ほどもてはやされる・もてはやしたいという性質が人間にあることを考えると、これからはそういう人が選ばれていくのだろうなという想像できますね。

友光  「もっとバシっと派手なコメントくださいよ、中野先生」というのはやはりあるのですか? 言われる時とかあります?

中野 間接的には(笑)。「At your own risk.」 というのですかね。仕方ないですね。そのほうがみんな喜ぶし。

友光 そうなんですよね。仏教や宗教はいいものだと思っている人がいたり、宗教はダメ、怖いものだと思っている人もいます。
僕はリテラシーゼロの状況からお坊さんになって見て思うのが、宗教や仏教は別に良い悪いのどっちでもないよということです。

そうはいっても、宗教なんて信じるか信じないか、個人の妄想の世界ですというつもりもぜんぜんありませんよ。でも一人ひとりの心持ちとしては、「こっちに行っちゃうときもあるよね」「でも、良い日もあるよね。悪い日もあるよね」という中で、その揺れていったり、人を許せたり許せなかったりということができない自分を受け入れていく。
極端な意見を持っている人も、逆のこと言う人も、ヒステリーを起こす人も、どんな人でも「まあ自分もそんなときがあるよね」といって多少でも自分と違う人を受け入れていくというのを、僕は仏教や修行から学びました。
強い意見や極端な意見を持つことは、別に強さじゃありません。そんなに意固地にならないでくださいというか、もっとグラデーションを持っていきてほしいなとか、人に対しても自分に対しても、極端にならないで生きていってもらいたいなとすごく思っています。

中野 そうですね。


後略)




吉 四六 にほんブログ村 教育ブログへ
2017-07-07-Fri-16-54

そのほめ言葉が子供を傷つける!心を育てるほめ方とは?①

今1歳の娘の子育て中なのですが、最近できることが増えてきたのですが喜んで何度もやってくれる時と1回しかやってくれない時があります。その時々のこちらの反応や声かけによってやる気があがったり下がったりするのでは?と思い子供の意欲をあげるためにはどんな声かけがいいのかなと調べてヒントになりそうな記事を見つけました。
→リンク

*以下引用**********************************************************
最近「ほめる子育て」という考え方が浸透してきましたね。たくさんほめれば子供のやる気が育ち、親も幸せ気分で子育てができるという、とても素敵な考え方です。

でも「ほめる」ってやってみると意外に難しいもの。意味のないほめ言葉を連発してしまったり、悪い事をしても「ウチはほめる方針だから」と叱らないママもいるようです。「ほめる子育てが良い!」と鵜呑みにしていると、ただの「しつけ放棄」になってしまう事も。

そもそも現在育児をしている世代は「叱る子育て」で大人になった人も多いのではないでしょうか?自分がほめられて育っていないので、どうしても無理のあるほめ方になってしまうようです。

間違った「ほめ方」は間違ったメッセージを子供に植え付けてしまいます。子供の心を育ててやる気を引き出す「ほめ方」とはどのようなものでしょうか?

○ほめ言葉が引き出すプラスな気持ち
喜び・・・大好きなママやパパのほめ言葉は、何よりのごほうびです。
意欲・・・ほめられると嬉しくなり、もっと頑張ろうと思えます。
自信・・・子供自身「これでいいのかな?」と不安に思っているもの。ほめられると「自分にも出来るんだ!」と自信がもてます。

ほめられる事で「自分はこれでいいんだ」という「自己肯定感」を感じる事ができれば、安心して次の事にチャレンジする意欲がわいてくるのです。また「人の役に立てる喜び」は充実感や、ごほうびを必要としない健全なやる気につながります。

でもほめるポイントがずれていると子供を不安にさせ、やる気を奪ってしまう事も!

○ほめ言葉が子供を傷つけるって?
大人は子供の為にほめているつもりでも、それが子供の心を縛り付ける事はよくあります。具体的な例をあげていきましょう。

幼稚園での出来事です。A君はとても気がつく子で、他の子の面倒をみたり、掃除を率先してくれます。でもよく見ていると、先生がいない所ではやらないし、何かするたびに先生に「僕えらい?」と聞いてきます。先生も「これはちょっと違うな」と感じるようになってきました。

A君の親は教育熱心で、できるだけ「いい子ね、えらいね」と子供をほめるように心がけているようです。親はA君が言う事を聞くので「ほめる事でいい子になった!」と思っているようです。

この場合の問題は「自己肯定感=ほめ言葉」「行動の動機=ほめ言葉」になっている事です。「自己肯定感」が育っていないA君にとっては「えらいね!」というほめ言葉が「自分の価値をきめるもの」になってしまったようです。

「いい子ね。えらいね」といったほめ言葉はは「言う事を聞けば、好きでいてあげる」というメッセージを含んでいます。

A君は親の愛情を感じるために、一生懸命「いい子」であろうと努力しなければいけません。ほめる事が子供を縛り、コントロールする手段になる事は健全とはいえません。

このようにして大きくなった子は、ほめてもらえなくなると「ほめられない自分は価値のない人間だ」と感じてしまい、自分を見失います。

子供をほめて成長させるはずが、逆に自信のない不安定な心の持ち主にしてしまう事もあるのですね。学校や社会でつまずく原因にもなりますから、注意が必要です。

②につづく




秀凜 にほんブログ村 教育ブログへ
2017-07-07-Fri-16-51

そのほめ言葉が子供を傷つける!心を育てるほめ方とは?②

○やる気を奪うNGなほめ方とは
①「えらいね」「いい子ね」「上手ね」などのほめ言葉だけで、どう良かったのか具体的に伝わらない。
②「いい点とれたね!えらいね」のように結果だけをほめる。これでは「ほめる=評価する」になっています。
③ほめる人の表情が伴っていない。無表情でほめられても嬉しくないですよね。
④失敗しても適当にほめる。子供本人もうまく出来ていないのは分かっています。「上手ね~」と適当にほめても、しらけさせるだけです。
⑤「やれば出来る子なのに何でやらないの?もったいない!」などは、ほめているようで相手を否定している事になります。
これでは親がほめているつもりでも、子供にとっては気持ちが全く伝わっていませんね。ではどのようなほめ方が良いのでしょうか?

○ほめるという発想を捨ててみる
そもそも「ほめる」という発想は、ちょっと上から目線かもしれません。「ほめる」のではなく、子供がうまくできたら一緒に喜び、良い行動には感謝してあげて下さい。

(例)子供がお手伝いをしてくれたら
「ありがとう!その気持ちが嬉しいわ」「○○ちゃんのおかげでママ助かってるのよ」

(例)一生懸命に絵を書いたら
「素敵な絵だね!○○ちゃんらしい色でママ好きだよ」「こんな事もできるようになったんだね。ママ感動したわ」

大切なのは、相手が笑顔になるまで言う事!それには親がが満面の笑顔で、ちょっと大げさにほめる必要があります。無表情でボソッと「すごいね~」と言って、ほめているつもりになっていませんか?

人はほめるのが苦手な生き物!?
「人のあらさがしは得意なのに、良い所を見つけるのはちょっと苦手」という人は多いものです。でもそれは仕方のない事。人はもともと良い事よりも、悪い事に意識が向いてしまう生き物だからです。

人類の長い歴史のうちのほとんどが、常に生命の危険にされされている状態でした。親がのんびりしていては子供を猛獣にさらわれたり、子供が毒草を食べてしまう事になりかねません!

そのような環境で発達した「危険を察知する脳力」のせいで、悪い事にはとても敏感になり、良い事には鈍感なのです。

だからこそ余計に「子供の良い所を探そう!」と意識する必要があります!それはママにとっても「人の良い所を探す目」を養う事になり、周りの人たちと良い人間関係を作る訓練にもなります。

2歳頃からはじまる反抗期を過ぎると、どうしても叱る回数が増えてしまいますよね。時には叱る事も必要ですが、大切なのは「叱る」と「ほめる」のバランス。

できるだけ「ほめる回数」が「叱る回数」を上回るように意識し、親子ともにストレスの無い育児がしたいものですね!

*引用おわり********************************************************

まずは「ほめる」という意識を捨て、上手くいったりできるようになったりしたら一緒に喜ぶ!ということを意識していきたいと思います!




秀凜 にほんブログ村 教育ブログへ


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。